神奈川県気功太極拳倶楽部(神奈川県太極拳連合会)

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中国武術思想「道家思想的心性」「儒家思想的規範性」「仏家思想的解釈性」について 中国武術理論6

中国武術思想について

 

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歴史長き”中国武術文化”は、古代思想哲学において影響を受けて発展をして来ました。

長く修練をしていく中で、やはり「中国武術思想」は本当に「中国武術」を修めるのに必修、必須です。

中国武術思想は、老子荘子などの「道家思想的心性」

孔子孟子荀子などの「儒家思想的規範性」

そして釈迦如来の説いた「仏家思想的解釈性」の3つを包括したものになっています。

 

道家思想的心性」

 

”上善は水の如し” これは「最上の善は水のようなものだ。水は万物に恵みを与え、他と争うことなく、人々が嫌う所に流れゆく。だから道に近いのだ」


最もすばらしいのは水だ、というのです。なぜなら水は万物に恵みを与えるから。これはわかります。私たちは水なしでは生きられません。渇きをうるおし、穀物を育て、汚れを洗い流し…水のありがたさはいくらでも挙げることができます。さらに他と争わない。つまり水は、流れのままどんな形にも身を添わせることができます。四角と言えば四角に、丸と言えば丸にもなります。三角でも立方体でも円柱でも、水は相手の要求のまま姿を変えることができます。


人々が嫌う所…これは他より低い所、底辺です。水はとことん低い所に流れていきますもっと低い所があれば、水は更に低く流れます。ところが人間というものは常に自分を高みに置きたがります。いついかなる時も自分をより高いものとして見たい…これが普通の人間心理です。たいていの人間がそうなのですから、ちょっと優秀な人、地位を得た人はすぐさま鼻高々になって、人より一段も二段も、いえ百段も千段も高い所に上がって他を見下ろしたいというのが人間です。

こうした心理を持つ中で底辺に流れゆこうとするのだから水を善し、と老子は言います。自分の身を低く低く屈することができるのはすばらしい、とします。


儒家思想的規範性」


孔子の思想の徳目は忠・孝・仁・義・礼・智・信・恕など多方面に渡ります。ではそれぞれを簡単に説明していきましょう。



「忠」と聞けば「忠君」…滅私奉公…と結びつけてしまいますが、孔子の「忠」は必ずしも「忠君」の意味ではありません。この滅私奉公的な「忠君」は時代が下るにしたがって政治的な意味が付与されたものと考えた方がいいかもしれません。孔子の「忠」は一般に友人関係に用いられ、「誠意を尽くす・真心を尽くす」意味で使われています。「忠」とは人に対する「誠意や真心をこめた行為」のことです。「忠君」で使われた例もありますが、その場合は前提があります。それは「君主が臣下に礼を尽くしている場合」臣下も君主に忠を尽くすというものです。君主が臣下に礼を尽くしていなければ、臣下も君主に忠を尽くす必要がない、ということなのです。



「孝」の本来の意味は「祭祀」のことですが、道徳規範としての「孝」はかなり古くからありました。孔子の唱える「孝」はかなり具体的で、まずは礼法に合致したやりかたで孝を行い、いついかなる時でも、心に敬愛の気持ちを抱き笑みを浮かべて親に接することとあります。決して親に心配をかけてはならず、親孝行の行為を通して社会に良き影響を与え、社会の気風を改善することまで期待されています。



「仁」は孔子の思想の核心で、人としての最高の境地を表しています。仁は「仁は人なり」と言うように人と人の間に生まれた道徳のことです。その基本的な意味は「人に対する愛」であり、この思想は当時の社会において画期的なことでした。というのは当時貴族からすると奴隷は人ではなかったのですが、孔子は奴隷であっても「人」とし、「仁」を向ける対象としたのです。仁はその中に「恭敬・寛厚・誠実・勤勉・慈恵」の5つの美徳を含んでいますが、最も大切な要素は「おのれの欲せざるところ、人に施すなかれ」(自分がしたくないことを人に押し付けるな)ということでした。人と交際する時、人を思いやり人を尊重する、これが仁です。



孔子の解釈する「義」とは「宜(ぎ)」つまり「ちょうどよい」ということ、「理にかなう」ということです。「義を見てなさざるは勇なきなり」(『論語』為政篇…義を見て行わないのは勇敢とは言えない)という有名な言葉があります。のちに儒者たちは義と利の関係について「義は天理の宜しきところなり。利は人情の欲するところなり」と説明しています。



「礼」の最初の意味は「神を敬う」ことでした。のちに尊卑と長幼の序を強調するものとして礼が制定されるようになり、やがてこれが道徳規範となっていきます。
孔子は伝統的な礼を用いて無秩序になった社会を立て直そうとしましたが、孔子の「礼」は伝統的な礼と異なり「仁」を強調するところにその特徴があります。
論語』八佾(はちいつ)篇に「人に仁徳がそなわっていなければ礼の使いようがない」とあります。また学而篇には「礼は人の心を温和にし、社会を調和させる」とあります。
政治の中でも礼の役割を重んじ、為政篇には「刑罰で人を正そうとすれば、人は法律を犯そうとはしなくなるが恥の心は持たない。礼をもって正そうとすれば罪を犯さなくなるだけでなく、恥を知って心から従うようになる」とあります。



「智」は『論語』の中では「知」と表記されています。「智・知」とは聡明・智慧・智謀などの意味です。孔子は智についてまとまった説明をしていませんが、『論語』の中では智慧についてさまざまな方面から書かれています。
たとえば『論語』為政篇で「これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」(知っているとは、知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとすることだ)となぞなぞのような面白い言い方をしています。自分が知っているのか知らないのかはっきり認識することこそが「智」であるということです。



「信」とは誠実で人をだまさないことです。孔子は信を礼の根本の一つと見なしました。そして弟子を教育するのに忠(誠実さ)と信を主とし、「家では親に孝、外では悌(年長者への敬意)、行動は慎重にして信あり(信頼され)、広く人々を愛して仁(仁ある人)に親しみ、これらを行ってまだ余力があるならそこで文(書物)を学びなさい」(『論語』学而篇)と教えました。この教えのもと、弟子たちも信を非常に重んじ、弟子のひとり曽子は信を守ったかどうかを毎日反省する項目の一つにしたと言います。



「恕」は『論語』の中に2度しか出てこない言葉ですが、『論語』里仁篇に「先生が貫こうとした徳目は忠恕である」と書いてあるように孔子が非常に重んじた徳目です。『論語』衛霊公篇で「弟子の子貢が『一言で終生の座右の銘とすべき言葉は何ですか』と問うと、孔子は『それは恕だろう。己の欲せざるところ、人に施すことなかれ』と答えた」とあります。恕とは思いやり、人の心を自分の心のように感じとる心のことです。

 

「仏家思想的解釈性」


釈迦の仏家思想の根幹は、彼が出家した理由は、老い、病、死といった人を苦しめるものからの解放を探し求めたことにあります。これらを、釈迦は苦について四つの教え(四諦説)にまとめています。それは、「人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦である」という真実、これを“苦諦(くたい)”と呼び、実際に次のような四つの苦しみ「四苦」(しく)として説明しています。


生……生まれたことによる苦しみ。
老……老いること、気力や体力が衰退し、自由が利かなくなる苦しみ。
病……病による苦痛を感じる苦しみ。
死……死ぬことへの恐怖や不安、苦しみ。


また、日常的に経験することの多い四つの苦しみ(「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五蘊盛苦」)が加わったものは四苦八苦と呼ばれています。これは悩みや苦しみを感じることを意味する言葉「四苦八苦」の語源となっています。


愛別離苦(あいべつりく)……愛する人と別離する苦しみ。
怨憎会苦(おんぞうえく)……嫌な相手と会うことが避けられない苦しみ。
求不得苦(ぐふとくく)………望むものが得られない苦しみ。
五蘊盛苦(ごうんじょうく)…肉体と精神が思うようにならない苦しみ。


これらの苦しみについて、釈迦は「人間が抱えている煩悩」が根本の原因だと考えました。たとえば欲しいものやお金を追い求めたところで、決して人間は満足することはなく、愛する者に執着したとしても、最後には別れを迎えなければいけません。


この煩悩や執着がもとで、結果的に苦が生じている真実を“集諦(じったい)”、そしてそれらの苦悩や欲望から離れることが悟りの平安にいたることを“滅諦(めったい)”、そして滅に至るための実践が“道諦(どうたい)”であり、それを八つの正しい道(八聖道)を釈迦は教えました。それこそが中道による生き方です。そして生きるとは何かという問いに対し、“諸行無常(しょぎょうむじょう)”の考えにたどり着きます。


「世の中のすべては移り変わるもので、何ひとつ確かなものはない。富や名声、健康や愛する人の命も永遠に続かない」


釈迦は物事への執着を捨て、それによってあらゆる煩悩から解脱すること執著による苦しみを離れた生き方、つまり苦をコントロールする生き方を示したのです。

 

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