神奈川県気功太極拳倶楽部(神奈川県太極拳連合会)

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中国武術史 中国武術理論3

中国武術史:中国武術の歴史


原始社会における中華武術は悠久の長い歴史の伝統文化の中から育まれてきました。
その歴史の中において創造発展を繰り返してきました。
しかし、王朝によっては武術を禁止されたりすることで低迷期もありましたが、それから多くの時代の中で繰り返しを経ながら今日まで様々なスタイルで伝承されてきました。


今や世界中に広まり更に大きな発展期に入っています。


この豊富な内容は拳術、器械から更に套路(とうろ=ルーティーン)や対抗性の技撃形式もあり、自分自身の強靭な肉体を築き、護身術としてや病気の原因ともなりがちな存在からも防身自衛の力を高め、競技会や表演(パフォーマンス)などでも楽しめる娯楽性もあり、交流技芸、友好の輪を広め増進させる活動にも繋がり、精神力を磨き、情操性を豊かにさせる効能もあり今や世界中の方々に好まれ大切にされています。


1.武術的概念

武術の概念、これは長い歴史から遡り「闘争」という原点から考えていかなければなりません。
歴史というのは時代によって同じではなく、その中でも古く原始社会の中での「自衛」の観念と「攻撃・殺傷能力」というものは現代とは必然性が大きく異なります。
最も古い技の成り立ちでは、原始社会における動物を狩猟することから始まり、それを「搏撃」と呼び、春秋戦国時代の時には「技撃」といい、漢の時代からは「武芸」という名称を用いるようになり、「武術」の最も古い記述には中国5世紀頃の南北朝時代の梁の太子の著述の中に出てきます。
しかし、これはあくまで指しているのは軍事技術のこととして表記しているので一般的には「技撃」と「武芸」が多く使われていたことがわかります。
中華民国初期から「国術」「功夫」と称し、中華人民共和国から「武術」というようになりました。


2.原始社会における武術

中国武術の起源は原始社会人たちの狩猟のための労働から始まりました。
原始時代の人間たちは自分たちが生存していくためには食用とした動物たちとの格闘(搏闘)をしなければなりませんでした。
そのために原始人たちは狩猟のために大量の工具と同時に武器を作り出しました。
それは大きな石の錘から始まり、石刀、骨から作った鋭い矢じりなどから棍棒などです。


そこから禽獣たちとの闘争があり、その中で動物を追いかけるために走り、跳び上がったり、転げ回ったり、そこから拳や足技を繰り出し、そこから叩く技術や刺す、切るなどの行為を自然発生的に行うようになりました。


これらの原始的で素朴な技法から始まり、それらを攻防技術への技能として発展し、更に技巧的になっていきました。


そこから更に攻防動作の方法を姿勢などを意識して工夫していくことでより生産性を上げることができるようになったのです。
これらが中国武術の原点になりました。


それから歴史が経つうちに動物だけでなく、人類は人間同士でも闘うようになっていきました。
ここから「自分たちの一番大切なもの」を「何があっても守る」という意識の萌芽でもあります。
氏族などが出てくるようになってからは、部落の間で闘争が起こるようになり、
人類の発展とともに戦争へと用途が移り変わっていったのです。


これからの「武力」は敵となった闘う相手を倒し、富や財産を奪うような手段としても扱われることが多くなり、そこから自衛と攻防の両義を含んだ「武術」は古代の戦闘と共に発展するようになったのです。

新石器時代の武具では石の刀以外にも、石の矛、石の斧、石槌などが作られ、発展したものでは弓が発明されたことです。
原始社会人たちの闘争の歴史的な進歩に伴い、起こったのは闘争のための「技撃・技術」を人前でのデモンストレーションとして演じたりすることで格闘能力の示威を表し、組合となるか戦いとなるか、と判別するという方法・手段として用いられるようになりました。


これが後に「武舞」という概念の萌芽となり、より大きな演練技術の展開に繋がりました。


そして、これらは原始宗教儀式の中にも取り入れられ、部落の首領の前で行い評価してもらう、という比武といいうかたちが出来ていき、これが比賽(競技会)の原点となったのです。


3.古代中国の奴隷社会における武術の位置

夏(か、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)は、中国最古と伝承される王朝、そして商周の時期には原始公社が解体され、新たに奴隷社会という形態ができてきました。
そこで武術という特殊技能を持つ人の需要は高まり、個人個人の能力を発揮し出世が大きくできるようになりました。
ここでは目的意識を持つ組織が生まれ社会活動を行うようになりました。

 

青銅器の出現


この頃の時代から動物の骨や木器から青銅器に移り変わり、武器の性能の質は向上し複雑な形をする兵器もできてきました。
そして戦闘では車を用いての輸送を行えることにもなり馬車上においての戦いも意識され武器も開発されていったのです(車戦は西周時期での戦争の主要形式でした)。
当然武器製造の数量は増し、戦いも様々な種類を用いる時代へと移行していきます。
ここでは銅矛、銅戈、銅斧、銅戟、銅剣など大量の武器が製造され使用できる時代になりました。
戦闘法としては遠くから射る攻撃を始め、長兵器、短兵器、そして格闘術、組み伏せる、という流れを作りました。
敵へと進攻するにはこういった戦術が取られ総合的な攻防意識の高まりになっていったのです。
訓練方法でも陣形をとった軍隊としての戦い方から個人的な格闘技術と分かれて行い、弓矢の練習も始まりました。

 

武舞文化


原始社会では武舞と武術は内容的に一体化したものでしたが、商周時期には「武舞」においてでは舞踏的芸術性を高め発展し、格闘技術としての武術の練習とも内容を区別して行うようになった時期です。
武舞の側面は思想や感情性を表現することでできる文化的娯楽性と健全な身体づくりと合わせて顕著に向上させられるという現代の武術表現の基礎ともなりました。


周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の時代には「六芸」教育が行われ、これは礼、楽、射、御、書、数とあり、豊富な武芸教育へと発展していきました。
武術は奴隷社会の世になって、個人の努力によって世に出て認められる可能性を高めたという文化現象が生まれたのです。

 

封建社会時期における武術社会


早期の封建社会の幕開けは春秋戦国時代からでした。
春秋時代(しゅんじゅうじだい)とは、中国の時代区分の一つ。紀元前770年。
社会生産力は大きくレベルアップして経済発展が起こり、文化学術は繁栄し 戦争は頻繁に起こり戦術や作戦計画などにも重きが置かれるようになりました。
このような社会背景の下では当然のことながら武芸が隆盛するようになりました。武術形式もその内容には身体機能促進においても良好な功能を研究するようにもなり全面的な発展が起こりました。
武術が社会において重要視されるようになると様々な変化が始まりました。
戦争のためだけに扱われる軍事的技能だけでなく、文化的芸事としての高尚な武芸としても昇華されるようになり武術の器械(武具)も軍事的実用性だけでなく、見た目にも素晴らしい彫刻などがほどこされ、見栄えのする技にも意識が置かれ、娯楽性や健康長寿のための健身性も重視されるようになりました。
ここからは戦闘法としての格闘武術と武術文化の両面を伴い大きく相互に発展隆盛していくようになったのです。


ここで大事なことは「意識」の芽生えであり、武術の技法や美学は人それぞれの自覚性武術意識が根底にあり、そこから戦術や武術理論が形勢されるようになりました。
春秋戦国時代では強者が貴ばれるようになり 以後、武芸のレベルの高低が社会的地位を決定していくようになったのです。


その過程では「修養の道」の体現が重視されるようになり、現代にも受け継がれる中華武術的特色や理論が出現しました。
これらは総合的な武術の実戦・実践経験を持つ人の基礎の上にあって技法や理論が作られていきました。

そして秦・漢・三国時代には更に大きな発展期を迎え多くの流派を形成するようになりました。
この時代では多民族を統一した封建王朝の建立が起こり、経済、政治、文化的な発展が春秋時代に比べ範囲が大きくなりました。
これは社会が安定した時代が長く続いたことも影響しています。
この時期からは集団による戦闘技能的側面よりも武術文化に重きを置かれ表現力がより重視されるようになりました。

 

4.武器の発展

武器においても多くの種類が作られるようになりました。特に漢代においては火を用いた製造技術が高まり、銅器に変わり鉄器に移り変わりました。
そして多面的な戦争局面で使用される武器が開発され、剣刀、盾、矛、戈、斧、長戟、大刀、狼牙棒の武器が生まれ 使用法もレベルアップしました。
その他、格闘術も盛んになり、角抵(相撲)手搏、撃剣などの競技武術が生まれました。同時期に生まれたのが剣舞、刀舞、鉞舞などの「武舞」形式の武術です。
そして身体活性法の技法も研究され動物の動作形態の模倣から運動方法を取り入れ編み出されました。
これらには「弥猴舞」「狗闘舞」「馬舞」「酔舞」「六禽戯」「五禽戯」があります。

攻防格闘術も盛んになり、徒手や脚で打ち合って行うものを「手搏」、組み合ってから技をかけあって行うものを「角抵」といいます。
剣を主体に武器と武器との打ち合いも始まり、剣対戟 剣対鉞などが出来て、套路技術の訓練法は一人で行う単練技術だけでなく武舞としての演武形式、対練形式になっていきました。
そして多くの武術理論と流派が形成されました。
漢の時代には大量の武芸に関する著作が出現し「漢書・芸文志」には「兵技芸 十三家、199編にわたる武術著作があり、中には主要なものは「射法」「拳法」「剣法」に関するものがありました。
漢代から民間で多くの武術が練習されるようになり、その中から民間伝統武術が生まれ異なる流派が生み出されていきました。
漢代に刀剣類、その技法や、角抵・相撲の術は日本にもたらされ、こういった武芸における文化交流も開始しました。

 

5.隋唐五代時期における武術発展

隋唐五代時期における武術発展の特徴は、器械の質がより改変され今までの短兵器から長兵器へ、銅から鉄へという変遷から更に戦術や方法が編み出され歩兵としての戦い方、騎乗での戦い方では槍と刀が多用されるようになりました。
刀剣棍槍術も多く民間に広まりその範囲は広大になった時期でした。
武挙制度が始まり、それを更に中国全土に武術普及に繋がり、考試を行い「勇猛な士」「機敏な士」「技術の士」というように人材発掘に力を入れました。
そこで職業武術家が誕生しました。
套路技術には新たな展開が起こりました。唐の時代には「舞楽」が流行し国家も隆盛期を迎えました。
その中で武術動作にもその立ち方や姿勢や目の動きなどの大きな表現形式が豊富な武術動作と結合し布局(場所の使い方)にも取り入れられ演武に多くの技巧も入ってきました。

 

6.南宋北宋時期

両宋時期は「尚武精神」を重要視した気風が促進された時代です。
宋に時代は戦争がまた頻繁に起きるようになり、武挙によって多くの士が集められ、更に明確な規定と試験が行われ尚武・建武の精神が尊ばれ武芸の高い人材は重宝されるようになりました。
比武は多く催され、軍事面でも優れた人材を選抜し更に武芸を促進させる時期になりました。
そして民間武術家からも優れた人材が輩出されるようになり、ここから登用されることもありました。
武術組織も多く出現し、「社」の概念が習武者の間でも重要になり、相互に技芸を切磋琢磨される場所となり、多くの技術交流、伝授そして発展にとつながりました。

宋の時代にはもう套路形式は定着し、練習形式・比武形式は完全に整った時代になりました。
中には拳術棍術、対練套路、集体における套路などです。
武芸の種類も多くなり、現代のも伝承される刀剣棍槍に、斧、槌、鞭などが出来、七節鞭、九節鞭、十三節鞭なども現れました。
武術理論書にも多くの経験から得た技法や理論が記術されるようになり新たな展開が始まりました。
その代表作には「武経総要」「武経七書」「建炎系年要録」「武林旧事」などが残されています。

 

7.明~清時期の武術

明~清の時期は中国武術の集大成された時代といえます。
明(みん、1368年 - 1644年)清(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。
たくさんの流派が林立し風格や方法がまったく異なる拳種が生まれ同時に多くの器械術も発展し、中国伝統文化と武術が融合を果たして完成し、理論体系も優れた体育運動としても確立できた時期です。
明~清の時代には多くの項目が創編され、新たな拳術も生まれました。
大量の武術著作が記され研究も深まり規律に則った運動形式になりました。
これらには合理的な動作の連続性や定まった路線を通り、套路はまとまった一つの運動方法として哲理が完成し、同時に攻防技術や戦術方法の理論ともまとまったものとして成り立ちました。
社会における武術のおかれた存在も変化し、丈夫な身体作りをしながらそれらを堅持し、精神修養性も向上し、娯楽鑑賞性としても水準が高くなり、様々な面からみて精神と肉体、娯楽性と芸術性すべての面から考えた防身功能を最重視した武術的体育性として更に高まりました。

 

・流派林立
時代によって武術家は高手を師と仰ぎ、伝授され様々な面において吸収・融合・進歩させて今日に至るまで来ました。
この中には全く風格や技法、信念にも特徴があり有名なものには、少林・峨眉・武当山などの流派があります。
清代に至ると更に多くの武術流派が生まれ武術界の繁栄は大きなピークを迎えました。
その武術流派は更に増え続けその項目の運動特徴として「内家拳」と「外家拳」と分類するようになり、外家拳は少林武術から多く発展したものを指し、内家拳には太極・形意・八卦と特徴を区分するようになりました。
そして更に地域を分類して「南派」「北派」と分けたりもしました。多くは山や川を一つの分離地点として考えられました。
山で分ければ武当派、峨眉派などがあり、川では長江流域や黄河流域、珠江流域で分かれた拳派があります。
明代の拳種が林立した傾向や特徴としては拳や器械術においては長器械・短器械・軟器械・双器械などに発展し、これらの演練される武術全体を総称して「十八般武芸」と呼ばれるようになり、清代においても更に内容は多彩になりその種類はこの時期においてで何百種類という状況が生まれました。

 

・武術組織の大量出現
清代における組織の特徴は民間の「秘密結社」としての「社」が非常に活躍した時代でもありました。
それは闘争的需要などから集まった「社」の存在や武術活動を更に発展普及させるための武術館としての「館」の存在も大きく広まり、文化としての教育と訓練を担い重要な役割を果たしました。
そのために武術はより広範囲において伝授されていきました。
明~清の時期には大量の武術著作が世に出ました。
明代には「紀效新書」「練兵実記」「練兵雑記」「武編」「江南教略」「陳記」「耕余剰記」「持衡」「武備志」などがあります。
清代に有るのは「手臂録」「大棒説」「拳経、拳法備要」「内家拳」「萇氏武技書」「六合拳譜」「太極拳譜」などです。
これらの武術著作は系統的に中国の歴史と結びついており、長い累積による武術運動的経験があり、常に研究尽くされて築かれてきたものです。
多くの套路技術、攻防格闘の技巧・戦術理論。
中国武術の特徴は人の持つ整体思考から出発し、
人体における内在的な意識との連係やその運動規律を把握できる「術」として発達しました。
これらは長年にわたる膨大な数の人々の研究の精華であり、これらが伝統文化として結集し形成できたのです。

 

8.中華民国成立時期の武術界

中華民国(ちゅうかみんこく、繁体字: 中華民國)、通称台湾(たいわん)は、東アジアの太平洋沿岸に位置する共和制国家。
現在は台湾島と周辺の島嶼群、南沙諸島の一部などを実効統治し、日本やフィリピン、中華人民共和国(実際上であり、憲法では自国領)などと領海を接している。
中華民国を正式に国家として承認している国は少ないが、それ以外の多くの国とも事実上独立した地域として国交に準じた関係を結んでいる。

中華民国(1912年1月1日に革命家の孫文を臨時大総統として、中国大陸を中心とする中国を代表する国家として成立)の成立時期は軍閥が割拠し戦争が頻繁に起こり政局にも大きく影響を与え、武術界にも影響を与えました。
上海には「精武会」「中華武術会」など30個ほど多くの武術会という「会」があり、「社」では北京には「北京体育研究社」「中華尚武学社会」など25の「会」があり、天津には「中華武術会」「道徳武術研究会」など10ほどの武術会がありました。
その他大きな都市部には同様にそれらの「武術会」や「社」が建立されていました。
後にこれらは中国各省、市、県などの「国術館」となって活動を促進させていったのです。
中国武術の拳種には強靭な身体づくりにおける鍛錬効果があることに着目し、1923年4月に馬良、唐豪などの呼びかけに発起して上海にて「中華全国武術運動会」が開かれました。
これは中国体育史上初めての単独項目で行われた運動会であり、1929年には第三回全国運動会の中に武術がエキシビジョン項目として初めて取り入れられました。
そして、1933年には武術が正式に全国運動会の種目に入りました。
この時期から武術は学校体育に加えられ教材としても多く作られました。
その中には「国術概念」「国術理論」「中華新武術」「査拳図説」「青萍剣図説」「少林武当考」「練歩拳」「八極拳」「太極拳」「八卦拳図説」などの書籍に進展しました。
この時期から中国武術を世界に宣伝紹介しようという活動が始ままり、民国中期に上海精武会が海外に武術名手を普及伝播のために分会を作りました。
1929年の秋に福建永春にて組成された国術団がシンガポールとマレーシアに巡回して演武会を行いました。
1936年1月には中央国術館と国立体育専門学校が組成したシンガポール、マレーシア、フィリピンなどの東南アジアを訪問し65回の武術公演を行いました。
そして1936年中国体育協会から選抜された国術表演隊がドイツで行われ第11回ベルリンオリンピック大会でエキシビジョンを行い、フランクフルトやミュンヘンでも演武会を行い中国武術を紹介しました。

 

9.近年における武術運動の新たな発展

1949年中華人民共和国成立後、継承、研究、普及、レベルアップのために様々な研究がなされました。
1950年代には国家体育運動委員会が組織され、普及用に簡化24式太極拳長拳系列の刀剣棍槍の初級、乙組、甲組の規定套路や基本教材が作られ広められました。
1959年に武術競技規則が制定され規格や基準が統一され、1961年から全国体育学院の教科になりました。
その後に文化大革命の嵐が吹き荒れ、武術は一時期制限され活動の停滞した時代がありました。
1970年後半の頃には、文化大革命が治まり太極拳南拳形意拳などの伝統項目も加えられまた新たな発展を遂げ、1979年に競技規則が再編成され1980年代から世界中に広まり国際スポーツとしての普及も始まったのです。

 

オリンピックムーブメントとしての競技大会

1990年の北京アジア大会から2010年広州アジア大会まで競技種目として行われました。
2006年には新たな高難度競技ルールが導入され、2008年の北京五輪開催期間ではエキシビジョン的な大会が行われました。

また、2006年には伝統武術競技ルールが制定され、現在も毎年中国全土各地で行われている国際大会では伝統部門がとても大きな発展を遂げており、これからの主流になっていくと思われます。

2020年1月にスイスのローザンヌにあるIOC国際オリンピック委員会本部での会議にて、これまではエキシビジョン競技大会が2回北京と南京で開催されましたが、2022年ダカールユース五輪の正式種目として初めて採用されました。

こうしたことを受けて今後は将来的に日本でも益々発展が見込まれます。